2012年1月14日土曜日









晩秋に訪れた東北沿岸の震災地。なんとなく気がかりなところがあり、だけど、あとで調べてみようと放置しておいた。いま調べていて、あっ!と驚きの声を漏らした。

雄勝町
森の中、R398を走った。突然前方の視界が開けた。破壊のすさまじさに呆然。そして町に似合わないりっぱな物産会館が残っていた。その建物は破壊されてしまった後も往時をうかがえた。大津波は河口から襲撃を開始し、狭い谷に建つ建物を次々となぎ倒し内陸へと這い上がったのだろう。大型バスが階高15mの建物の上に押し上げられているのだ。岸壁の巨大ブロックが、あるいは沈下し、あるいはあっちにと向きを変えているのだ。物産会館はかろうじて残った建物のひとつだ。この町は妙にこころに残っていた。いま、自分が走ったルートを地図でたどっていて、あっ!と驚きの声を漏らした。この町は雄勝町なのだ。硯(すずり)や薄板天然スレートの産地として全国に有名です。JR東京駅の復元工事が進行していますが、東京駅の屋根にも雄勝町のスレートが使われています。

貞山運河(ていざんうんが)
走ったルートにはその他さまざまな面白いものがあった。そのひとつが貞山運河です。
仙台空港の南側から北上を開始したのですが、空港と海岸砂丘・防風林との間に延々と大型の堀が海岸に沿って走っていることに気づいた。運河(堀)って、河と河、河と海などをつなぐものと思うけど。。。調べていて正体を突き止めたのですが、なんと旧北上川から阿武隈川まで約60kmに及ぶ日本最長の運河系なのです。最初の堀は仙台藩主伊達政宗の命令により開始されたようです。海岸から数百メートルと離れてないところを海に沿って進む運河。明治になってからもこの事業は進められました。

なぜ日本海を利用する北前船(きたまえぶね)があったのでしょうか? 海原の船乗りは命がけでした。内陸航行は悲願だったでしょう。ひいひいお爺さんの時代まで重量物や大量輸送は船でした。『物資を運ぶ』という命題に私達はどう答えていたのでしょうか。

応用問題:日本の総面積の4倍以上の流域とそこに4億以上の人口を抱える長江(揚子江)。河口の川幅は80kmにもなります。原稿用紙4枚で水運について答えなさい。


写真は、ぼくの、目には映っているが気づいていないことをよくあらわしています。